CILちょうふ
~1人ひとりが輝いて生きていける社会を目指して~
秋元妙美ヒストリー
~出生から小学校卒業~
2歳半で脳性まひと判明。それまで何件も病院を渡り歩いていたのに判らず、
某療育センターの先生が診察して数分もしないうちに『脳性まひ』と告げたらしい。
お遊戯会?でウサギ役をやったことで、ニンジンが好きになる。
療育センターの奥まったトイレが怖くてトラウマに。
キンモクセイの香りの芳香剤が漂っていたことから、いまだにキンモクセイの香りは苦手。
保育園で、わんぱく坊主の「ひでゆきくん」に初恋
いつも暴れん坊だったのに、私には優しかったから
弟が誕生。同年のいとこに嫉妬する。いとこには素直に抱かれるくせに、
私が抱こうとするだけで泣いてたから。なのに、夜は横に私がいないと寝ない。さすが弟、
障害児の姉をすでに認識していた?
幼稚園の出需品はおままごと用のスカート。
これがないと大好きなモルモットを抱けなかった。
教育委員会と小学校入学をめぐり、バトル。私はゲームと思っていた知能テストを
楽しんでやっただけ。結構よかったらしいけど、その知能はどこへ?
入学直後の全校朝会で校長先生が紹介してくれ、一躍有名人に。当時の全校児童は1000人。
遠くから声をかけられたり、質問攻めの日々がしばらく続く
2年生までベビーカーで移動。「さすがに恥ずかしいでしょ?」と
療育センターのあの先生がいってくれて初めて車いすを作る。
母に誕生日プレゼントと言われ、素直に喜ぶ。騙された!
理解なく、プールを許可しない校医にイラつく。
『脳性まひは必ずてんかんを起こすから危険』らしい。←これ誤り
遠足でアスレチックへ。もちろん全部やると言い張る。付き添いは父親で、
抱えたり負ぶったり、池の中に入って私を支えたり。ほぼすべてクリア。
普通そこまでやらせないよね。私の頑固さに勝てなかったんだろうけど…
ローラースケートが流行り、もちろん周囲の反対を押し切り、履いてみる。
支えてもらっても立つことすらできず、あえなく惨敗。懲りずにスケボーに座って乗るが、
座位が保てずこれまた惨敗。
電車を使って弟と日ノ出町の伯母さんちまで日帰り二人旅。はじめてのおつかい以上の物語。ハプニングが続出。皆さん携帯もない時代ですよ。よく両親が出させてよね。
5・6年時の担任のオヤジギャグに受けていると勘違いされる。つまらないオチが
すぐにわかってしまい、いち早く反応してしまっていただけなのに・・・
~中学時代~
中学でバドミントン部の門をたたく。入れてくれるはずもなく、
結局帰宅部3年間。
定期試験は校長室についている応接室で受験。
鈴の音が聞こえるとわからなくても書いているふり。
校長先生が近づいてくると聞こえる音だったから
1番嫌いな時間は給食。頑張って食べても汚いし、余計緊張するし、
それを白い目で見る奴いるし。食べなくてもよかったかな、なんて。
高校では信じられないけど。たぶんこの時代の分まで楽しんで食べた。
体育は一通りやらせてもらった。支援学校から赴任してきた先生で、
「秋元ストレッチやるからこっちおいで」とかかなりみてくれてたんだけど…
自分の障害に反抗期だった私は受け入れられず。若くて人気があった先生だから余計にね。後悔している。
移動教室、山歩きが主ということで強制不参加。なのに毎日課題あり。
未だに納得いかない。
修学旅行で他校生徒とのけんか勃発。付き添いの父親が先生と仲介に入る。
~高校時代~
はっちゃけ支援学校高等部生活。今考えると手の焼ける生徒だったかも。
あこがれだった電車通学。初日は両親が後ろからついてきてたらしい。
なんて言ったって京浜東北線の1番混む区間を使っていたんだから。
卒業してから知らされた(笑)
どんなに時間をかけても車いすの友人と電車でおでかけ。
結構バリアフリー化に貢献したかも。
夏休みに学校にお泊まり。肝試しサイコー! 今はできないね、きっと。
高2で北海道横断修学旅行。支援学校とは思えない行程。
あれほど食べまくった旅行はない。
高3時ミラクル起こる。仲のいい3人が同時に障害者国体に選ばれる。
第2の修学旅行と化す。
後にも先にもない、受験に向けて猛勉強。放課後は先生たちが
個別学習してくれた。予備校もいかず、受かったのは先生たちのおかげ。
卒業まであと2か月のところで精勤賞を逃す。受験が終わり、
ほっとしたのか4日間寝込む。
卒業式間際に『秋元、あと1日休まなければ精勤賞だったのにな』と
担任からニタニタしながら言われる。くっそー!
~大学から現在~
大学4年間寮生活。生活でいっぱいいっぱいの毎日を送る。
夢見てた花の学生生活とはほど遠く…。
車の免許取得。両親は教習で100万円かかると思ってたらしいが、半額でクリア。
といっても、結構かかったなぁ。私の状態を知っている人ほど同乗したがらない。
初海外、脳性まひ者の陸上大会出場しにイギリスへ。半分は観光だけど。
これがきっかけでボッチャを始めた。
ボッチャ初めて1か月半でボッチャのワールドカップに出場。一人病欠の選手が出たため、
急きょ、代打で行くことに。当時はこんな感じで行けちゃうぐらい選手は少なく、
ゆる~い感じだった。 この大会でベスト16! 完全にハマる。
社福士の実習で実習グループ担当に痛いところをつかれる。『秋元は自分の障害を受け入れてない』今はその意味がよくわかる。当時は悔しいだけだった。
寮と大学の行き来は三輪車。見てる方が怖かったらしい。
2000年、シドニーパラリンピック観戦。ボッチャの会場に行き、
パラリンピック出場の夢を固める。
4年で無事卒業。しかしながら就職決まらず。実家に出戻り。
就職活動に精を出すのことごとく撃沈。大学教員のもとでアルバイト。
『秋元にしかできないことを探せばいいんじゃない』の言葉で、
就職活動を打ち切り、自分探しへ。
車いすを作るために療育センターへ。20年ぶりに看護師さんと再会。
当然ながら、私はわからずだったけど、3歳児の私しか知らないのにわかるってどういうこと?
この時、電動車いすを勧められるも「まだ歩けるから」と拒否。
2年半後には電動を作ったけどね。
地元のCILに出合う。この時はまだ自分が代表になるなんて思ってもいない。
大田区内で一人暮らし開始。毎日失敗の連続。でも楽しさと充実をかみしめる。
このころ出始めたボトックス治療を試すため、療育センターに5日間入所。同世代の看護師さんと世間話に花が咲く。ドクターに『もう一泊して』と言われるも、断り、
翌日は友人たちといちご狩りへ。
CILふちゅうのスタッフになる。同時に調布へお引越し。
フル活動するには必須条件で、なくなく電動車いすを使い始める。
北京パラリンピックでボッチャを解説。4年後は向こう側へと誓う。
CILちょうふ活動開始。決断のきっかけは…長くなるのでやめときます。
2011年ボッチャワールドカップ、日本初のチーム銀メダル。数えきれない裏話あり。
ロンドンパラリンピック出場。
これほど楽しくてうれしくてしかたない期間はなかった。
それだけいろんなことを乗り越えたんだ。やりきって競技からは去る。